このブックレビューを読んでいただける方にご推奨したいのは、まずは前回掲載した『「家族の幸せ」の経済学』(山口慎太郎著、光文社新書)のブックレビューを先に目を通していただきたいということだ。
著者の山口先生はアメリカの幼児に対する長期調査の結果を踏まえて、幼児教育の意義を語りつつも、「知能面に対する効果は、8歳時点でほぼ消えてしまいました」と書いていました。
ところが、山口先生の論拠となった長期調査を実施したノーベル賞経済学者、ジェームズ・ヘックマン・シカゴ大学特別教授は、日経ビジネスのインタビューで「幼少期にきちんと教育的な介入を受けていれば、30代になった時のIQが平均してより高くなり、その後も高いままであり続ける」と答えている。
「知能」については山口先生の著書でもヘックマン先生の著書でも、主要な論点ではないのだが、幼児教育が知能に及ぼす影響について整理しておかないと、モヤモヤが解消しない。
「幼児教育はIQに良い影響を及ぼす」
結論から言えば、「幼児教育はIQに良い影響を及ぼす」ということだ。論拠とした長期調査の違いが先生お二人の見解の違いになったというのが真相のようだ。
山口先生が論拠とした長期調査「ペリー就学前プログラム」は、低所得のアフリカ系58世帯の子供を対象に実施されたが、対象年齢は3歳から4歳。しかも、非認知的特質を育てることに重点を置いた。
一方、ヘックマン先生が「幼児期ならIQを高められる」とするのは、「アベセダリアン・プロジェクト」という長期調査だ。こちらは、平均年齢が生後4.4歳ヵ月の赤ちゃんが対象だった。しかも、調査対象の子どもが8歳になるまで毎年、一年を通じてプログラムを実施している。プログラムの内容も、個々の子どもに合わせた個別カリキュラムだった。ペリー就学前プログラムが30週だったのとは、関与した日数がまったく違う。
つまり、大人になってからのIQの向上まで好影響を与えたのは、
1)生後まもないときから幼児教育を施したこと
2)8歳になるまで徹底して教育を施した
からだということになる。要は、赤ちゃんのときから教育が大事だということだ。
「非認知能力」の大事さを教えてくれたのが、ヘックマン先生
ここからが本題。ヘックマン先生の『幼児教育の経済学』の書籍について紹介していきたい。
書籍の構成は、ヘックマン先生の「子供たちに公平なチャンスを与える」「ライフサイクルを支援する」という論文が中心となっている。その2つの論文にはさまって、アメリカの心理学や教育学の専門家10人がヘックマン先生の主張にコメントを加えている。『マインドセット「やればできる! 」の研究』(草思社)の著者で有名なスタンフォード大学のキャロル・S・ドウェック氏も参加している。最後の章では、大阪大学の大竹文雄先生が解説を行っている。
大竹先生は解説で次のように書いている。
「ヘックマン教授の就学前教育の研究は、二つの重要なポイントがある。第一に、就学前教育がその後の人生に大きな影響を与えることを明らかにしたことである。第二に、就学前教育で重要なのは、IQに代表される認知能力だけではなく、忍耐力、協調性、計画力といった非認知能力も重要だということである」
(本書より引用)
日本の教育界でようやく本腰を入れ始めた「非認知能力教育」、すなわち「探求学習」の重要性を教えてくれたのは、ヘックマン先生ということだ。
教育に投資効果の大事を教えてくれたのもヘックマン先生
ヘックマン先生の功績はもう一つある。それは、感情論に流れやすい教育論に、データ分析を持ち込み、投資効果の議論を持ち込んだことだ。ヘックマン先生らは「幼児教育に1ドル投資をしたら7.16ドルのリターンが見込める」という研究成果を上げた。そのことが、アメリカ政府の国家政策として、成人よりも幼児への教育投資が大事だという結論に結びついていくのだ。
こうした投資効果を求める発想は、教育学の世界にはなく、労働経済学や計量経済学の世界の学者が持ち込んできた。日本で大ベストセラーになった『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の著者である中室牧子氏も、ヘックマン先生らと同じ学者の系譜で、「データ」に基づき教育を分析する教育経済学の学者である。
本を読むとき、書籍が生まれた背景まで知ることができれば、もっと深く理解することができる。そういう意味で、同書の最後にページ数を割いた大竹先生の解説は、大いに役に立つ。
(ジャーナリスト、ほき・しもと)
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